
◆1st Step: 私がトレーナーを目指したきっかけ早速ですが、第1回の今回は要望がありましたので私がトレーナーになったきっかけをお話したいと思います。 全てはバスケットボールとの出会いと関係します。私は中学生1年生の時にマジック・ジョンソンのパスを始めてテレビで見た瞬間からバスケットボールの虜になりました。私はそのころ所属していたテニス部をすぐに辞め、バスケ部に入部しました。それ以降私はバスケットボールとNBAに夢中になり、家にはNBAの試合をビデオに保存して夜中まで何度も繰り返し見ていたのを今でも思い出します。そのビデオの数はその当時には100本以上になりました。 将来の職業を考え始めたとき、バスケットボールがそこまで上手くなかった自分にとってバスケット選手としての食べていく事は考えられませんでした。「人のために何かしたい!!」という気持ちが強かった私は医師になる事を小さい時から夢見て猛勉強していました。(特に親や知り合いが医師というわけではなかったのですが。)またそれとは別にアメリカという国に強い憧れもあり、NBAチームの運営などに携わってみたいという思いもありました。この事はNBAの雑誌でニュージャージーネッツで仕事をしているジュン安長さんの記事を見た事に大きな影響を受けました。遠い国の遠い世界であるNBAで日本人でも働く事が可能なのだと感銘を受けた事を今でも思い出します。(今ではそのジュン安長さんとは個人的な親交があります。不思議な気分ですね。) 高校に進学する頃には現実的な話として日本で医者になる事を考えていました。沢山の部が全国大会などで活躍しているスポーツで有名な埼玉の私立高校に入学はしましたが、バスケット部だけはいつも地区予選敗退の弱小チームでした。それでも身長もあったせいか(180cmでセンターでした!)1年生の頃からスタメンで起用され、私なりに全てをかけてがんばっていました。そしてすぐに悲劇は起こりました。まずは足首の怪我から始まり、膝の靭帯の怪我などが続きました。その当時は正しいリハビリ方法も知りませんでしたし、コーチも「痛くても我慢してやれ」という感じでした。怪我が完治しないうちに早期復帰してはまた怪我を繰り返すばかりで、ほとんどの残りの高校生活をリハビリとウエイトトレーニング(練習見学)で過ごしました。有望視されていた部長にもなれず、そして退部も考えた事が何度もありました。(結局副部長にはなりましたが。。) そんな自分を救って頂いた人物に出会いました。怪我の絶えない私は先輩から学校の近辺にある評判の良い整骨院を紹介してもらいました。そこの院長である渡辺一民先生は今まで私が考えていた整骨院のイメージをまるっきり変える方法で患者の怪我も生活もメンタル状態も全部見てくれるような方でした。怪我も治るばかりでなく痛んだ心を癒してくれ、救われる思いで通っていました。そしてこのような方が常にチームなどについて皆の怪我を見てくれればどれだけ素晴らしいかといつも思っていました。そんな時に本屋でふと立ち読みした留学雑誌で見つけたのがアメリカにあるアスレティックトレーナーという資格でした。アメリカでは準医療従事者免許で(看護婦さんと同じようなレベルと言えば分かりやすいでしょう。)スポーツ選手を主に見るメディカルスタッフという事でした。その時に私の頭の中にキラリと閃くものがありました。いままで夢に見ていた医者の絵とNBAの絵が重なり、これはもうアメリカに行くしか道はないと思いました。アメリカに知り合いがいたわけでも、英語が話せるわけでもありませんでしたが、それは当時の私にとって成り行き上の当然の決断でした。たまたま自分の勉強したい事がアメリカにしかなかっただけの話でした。高校の先生方からは「馬鹿げた話だ」とか、「アメリカに行っても成功しない」などと反対された場合が多かったのですが、理解のある両親は納得してくれました。そしてその時の決断が正しかった事を今でも実感していますし、私を支援してくれた両親や渡辺先生や友人たちに心から感謝しています。 そして高校を卒業した年の1996年の6月に渡米して私のトレーナーの道が始まりした。資格を取ってある程度の経験を積んできた今でも、怪我で悩み苦しかった高校時代の気持ちが強く心に残っています。その分怪我をしている選手の気持が分かりますし、傷害の予防や処置に関われる今の仕事は最高に充実しています。特に大好きなバスケットボールの現場での仕事に携われている事は本当に幸運だと思います。仕事が趣味のようなものなので仕事を苦に思った事が一度もないのは当然かもしれません。そして初心を忘れないことを心がけて毎日の仕事に励んでいます。 |