慶早戦パンフレットデータ 第39回(1981年)

パンフレット表紙
第39回
開催 :1981年5月24日
会場 :慶應義塾大学日吉記念館

大学男子メンバー表   大学女子メンバー表
   
部長 新田 敏 法学部教授   部長 新田 敏 法学部教授  
総監督 武山栄雄 S11年卒 総監督 武山栄雄 S11年卒
監督 内海 淳 S30年卒 監督 立花雅男 S37年卒
コーチ 畑 龍雄   コーチ 佐々木三男  
トレーナー 阪口裕昭  法律4 慶應義塾 主務 池田めぐみ 文3 慶應女子
主務 伊藤 敬 法律4 慶應義塾  
 
権田哲也 法律4 177 慶應義塾 井川幸香 法律4 158 横浜翠嵐
坂本 滋 商4 170 土佐 杉之尾節子 政治4 164 戸山
太賀秀明 法律4 182 山形東 鶴池 朋 文4 158
関野 誠 商4 182 高崎 辻 美舟 法律4 162 慶應女子
廣松英樹 政治3 190 土佐 藤波美和子 文4 158 慶應女子
長谷川潤 法律3 189 安積 蛎崎万規子 工4 166 湘南
10 湯沢正樹 政治3 183 飯田 10 三好百子 法律4 173 慶應女子
11 内田好治 工3 180 小田原 11 岡部良子 文3 159 九段
12 加瀬 正 経済3 170 慶應義塾 12 森みどり 政治3 158 横浜緑ヶ丘
13 舟越幹洋 政治3 170 松江北 13 中谷雅子 文2 158 西
14 伊藤 誠 政治2 180 安房 14 柴田美貴 文2 165 田園調布雙葉
15 野里周司 政治2 180 武蔵丘 15 佐藤尋栄 政治1 158 横浜翠嵐
16 佐藤直樹 政治1 184 浜松西 16 成瀬まゆみ 文1 165 白鴎
17 有明厚典 法律1 177 慶應義塾 17 汐崎順子 文1 159 湘南

 

 

早慶定期戦の思い出

第1回定期戦写真

熱くなる!この一枚

よくぞ、このページお開きくださいました。まず、次の写真をじっくりご覧願いましょう。
鋭い観察者は、『ハハアー、フリースローラインのくびれ具合から定期戦初期のものだ』と、気づかれたことでしょう。これは第1回定期戦(当時主将)横山氏からの提供写真です。横山氏のジャンプシュートは、当然成功しました。

では、定期戦が始まったころの思い出を横山先輩に、続いては昭和26年度アサヒスポーツ最優秀団体に輝いた塾チームの基礎をつくった一人武富先輩からの寄稿文、さらに壁谷先輩、村井先輩の思い出話を紹介しましょう。
これにより皆さまのバスケットボールへの関心、ひいては早慶両チームへのご理解が、さらに深められると考えます。

定期戦生い立ちの思い出

横山 堅七(早大・昭和16年卒)

第39回早慶定期戦の開催に際し心からおめでとうとお祝いいたします。そしてこんなに長くしかも盛大に引継がれていることを目の前に見て第1回を開催した私たちは、想像もしなかったことであり、やはり引継がれた関係者の熱意と早慶両部の歴史と伝統の重みをひしひしと感じざるを得ません。
 遡って第1回定期戦発足当時の思い出をたどると私は、ちょうど41年前の昭和15年〈1940〉に早稲田の主将に就任したが、世相はそろそろ険悪の度を増し、この年は第11回ベルリン大会の次の東京オリンピック大会が辞退中止となり、またこの年6月に東亜競技大会と称し陸上・野球・排球・庭球・卓球に籠球の各種目が日本、満州国、中華民国、比島の4か国で東亜の民族競技会として神宮外苑で華々しく開催されたり、スポーツ界もだんだんある方向に導かれていた時代でした。
 当時、多くの競技種目に両校定期戦が行われ、かつ各々の競技界最高の地位を占めていたが、バスケットボールも遅まきながら是非発足したいと、当時親友だった慶応西郡主将と期せずして意見が一致し、お互いにさっそく各方面の諒解を得ることに奔走全面的に賛成をいただいて創立の運びになった。
 その当時の趣旨は、
(一) 皇紀2600年の新事業として両校の親睦を図り、伝統の精神を永劫に伝承せしめ斯道発展の一助たらんことを期するに在り。
(一) 定期戦期日は、毎年6月第1日曜日とする。
但し、今年は都合に依り6月23日とする。
(東亜競技大会のため)
(一) 試合の様式は、OB戦現役戦の各一回戦を行う。選手は、現役のみ出場資格を12名に限定する。
(一) 主催は、両校体育会籠球部とする。
という内容で、第1回は神田国民体育館コートで華々しく行われた。
パンフイラスト 大体表向きは、紀元2600年記念事業ということであったが、前年大学リーグ2部より苦心惨憺の上1部に復活して意気あがる慶応は、当時まで常時斯界の最高峰をいく伝統ある早稲田の胸を借りて、早くレベルアップを図り、追いつき追い越せの願いがこめられていたようだ。第1回は幸い早稲田の勝利に終わったが、戦後いち早く本場アメリカのコーチを受け、新技術を導入して黄金時代を築いた慶応のOB・現役の諸兄に心から敬意を表します。そして現在まで通算負越している早稲田の奮起を促し、さらにこの定期戦がますます強固に、そして両部の研鑚の場として永く受継がれんことを祈ります。

時代おくれのコンピューター ・・・ というなかれ

武富邦中(慶大・昭和25年卒)

早慶定期戦も、第39回目を迎えるという。第二次大戦の空白期間も加えれば、すでに四十有余年の歴史を積み重ねたことになる。今日出場の選手諸君は、まず勝負へ執着する前に、この行事自体に参加することに、大きな誇りをもっていただきたいと思う。
 私も戦後復活第一戦を機に、折にふれて先輩から聞かされた。それは、早稲田の皆さんの温かい友情と理解のもと、早慶の切磋琢磨と充実を図り、ともに斯界の確たるべしを目標に発足したと聞く。当為は、出場選手を奉書に墨書して交換した記憶もあるほどで、ペナント交換の折には、両軍の気迫も最高となり、厳粛な格式と誇りがそこに漲っていた。 
 各プレイヤーは、この定期戦のもつ伝統的風格の中で、それぞれ早慶にふさわしい選手へ成長していった。おそらく、リーグ戦・学生選手権の経験だけでは育ちえない貴重な試練の場ととらえていたに違いない。それゆえに、早慶両校は、この機会を大切にし、日ごろの練磨の度を、惜しみなくぶつけあってきた歴史といえると思う。
 近時、本定期戦にかける現役諸君の熱意に、いささかの沈下を感ずるにつけ、今一度スケジュール化された行事の一つとせず、原点というべき、学生の手づくり、燃える早慶定期戦を蘇らせていただきたいものである。
 両校のご健闘を祈るとともに、あくなき練磨、訓練の成果を世に問う刺激を期待する。

早慶定期戦の思い出

壁谷道明(早大・昭和31年卒)

私が在部中の早慶定期戦は、第10回から第13回までの4回だが、それ以前の第8回は、早慶定期戦の歴史に残るゲームではなかろうか。それもゲーム内容ではなく、会場である。
 当時はまだ敗戦の影が色濃く残り、運動施設は非常に貧しかった。辛うじて戦災を免れた国民体育館はナショナルジムと改称されて、進駐軍に接収されていた。大学の中でもバスケットボールの公式戦ができるような体育館を持っていたのは、明治大学だけであった。もっとも戦前のバスケットボールは、アウトドア−の競技であり、ベルリンオリンピックでも屋外のコートでゲームが行なわれたようだ。
 第8回の定期戦は、浜松町のスポーツセンターで行なわれたのである。定員が何人であったのか、その当時そんな関心もなかったが、大学のリーグ戦からオールジャパンまで、観覧席もない体育館で行なわれていた時代であるから、まさに画期的なことであった。(中略)
 昭和28年も、早慶定期戦では敗れた早稲田が、リーグ戦では慶応に連勝している。早慶を問わず、秋からシーズンには負けない相手に、春の定期戦では負けるケースが、実にしばしばおこっている。これも早慶定期戦が、早慶両校にとって、春だからとか、シーズン初めだからといって片付けられない“なにか”をもっているからであろう。その“なにか”を早慶両校は誇りにし、他校はうらやむ。(中略)
 第36回(昭和53年)には、早慶両校OBの拠金により、ほぼ原寸大のボールを模した純銀製のカップができあがった。そのカップのプレートには、第1回からの戦績が刻まれているのだが、あと100回は充分に刻みこめる余裕がある。カップがいつまでも健在なら、今から100年後、現存する我々がだれもいない所で、百数十回の記録を刻んだカップを前に、早慶定期戦が争われているのだろうか。そうあることを祈りたい。
(『慶応義塾体育会バスケットボール部50年史』より抜粋)

栄光のユニホーム

村井一郎(慶大・昭和48年卒)

その昔、武士は戦さに必ず鎧を着たように、我我は、闘いにKEIOのユニホームを着る。入部したその時から早くあのユニホームを着たいと思いつづけ、それだけにユニホームへ対する愛着、そして思い出にはつきぬものがある。
我がバスケットボール部が偉大な伝統に培われているものであれば、それを象徴しているのが、私の下級生当時のユニホームであった。番号がとれかかり、走るたびにヒラヒラと揺れる奴。洗濯する時、洗剤と強力な漂白剤と間違えたのでしょう、ひときわ色あせた奴。ユニホームも様々で、それぞれの勝利を目指し活躍したものばかりであった。
 そのユニホームも、思い切ってつくりかえることを決めたのは、昭和47年秋のリーグ戦突入前であった。そして、待ちに待った新しいユニホームがついに出来、伝統の早慶戦から着られるのである。これから数々の勝利と栄光を共にするであろうこのユニホームの最初の一戦は絶対に勝たねばならない。絶対に。
 この時の対早稲田の一戦は、このリーグ戦のなかでも最も思い出深いものとなっている。前半3点差をつけられたが後半盛り返し逃げ切れたと思ったのも束の間、残り25秒で再逆転されてしまった。しかし、この試合だけは絶対に負けられないという全員のガッツは、残り10秒で再び1点リードし、勝利をものにした。この一戦で我々は波にのり、早大、東教大に連勝し、その結果、第5位という戦績で終わったのである。
 満足のいく戦績ではなかったが、負けが続き、それを全員で盛り返しての結果であっただけに、我我にとってよい経験であった。それにもまして、新しいユニホームの第一戦に、きわどいながらも勝った事は、成績をはなれて、とてもうれしく感じた。
(『慶応義塾体育会バスケットボール部50年史』より抜粋)


来年の昭和57年には、本定期戦も40回を迎えます。また、昭和58年に早大は、創部60年−人生では還暦−を迎えます。これらは日本バスケットボール界にとって、慶事のひとつです。楽しい記念行事も挙行されることでしょう。
今回に限らず、常に好意を寄せていただく皆さまには、定期戦ごとに、あふれる情熱をもって臨む、早慶の若人の対戦と成長ぶりを見守っていただくことをお願い申しあげます。
 5月24日に迎える第39回定期戦は、過去にひけをとらない、立派な大会となりましょう。これも諸先輩はじめ、幾多の関係者の絶大な支援があったればこそ、成立しました。誠にありがとうございました。サァー、試合開始の笛が鳴りました。あなたは、どちらのチームを応援されますか?よかったら、もっと前へ詰めて声援してください。

(慶大・昭和35年卒・澤田)

 

 

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